2020年に梅田芸術劇場で藤田俊太郎演出・城田優主演のNINEを観、2026年に指田珠子演出・鳳月杏主演のNINEを観ることができた。限りある人生の中で同じ作品を違う演出違う座組で観ることが叶う、これこそ僥倖ではないか。
ということで感想文を書いていきます。なんらかでこの記事にたどり着いてくださった皆様、ありがとうございます。読んでいただく前にお願いが三つあります。
まずお願い一つ目、ケア・インナーチャイルドといったワードや構造的にどうとか言い出します。自分語りも含まれます。読んでる途中で合わないと思ったら読むのをやめてください。素人が書いた無料の文章ですので無理に読むことないです。自分の書き方が宝塚ファンのボリュームゾーンにないだろうと思っているので、普段あまり宝塚を観て感想文を書かないです。でも今回に限っては書きたくなったので、書いています。
そしてお願い二つ目、読んで少し面白いかもと思ったら、他の記事も読んでもらえると大変嬉しいです。2026年に入ってから観劇感想のほか月次報告も実施しています。様々なYoutubeを観、色々食べている様子が分かります。
そして最後のお願い、気が向いたらマシュマロでもなんでも、感想を投げていただけると飛び跳ねて喜びます。
宝塚月組『NINE』感想
ざっくりしたところを先ず書く。グイドがクズとかはあんまり思わなかったんだけど、藤田俊太郎演出より今回の指田珠子演出のほうが色々容赦ないというかシビアかつストレートでわらってしまった。そういう意味では宝塚らしくした?なった?のかな、演出は分かりやすかったと思うけれど、そもそも題材が分かりにくいので好き嫌いが分かれますね。
たまにはこういう作品もいいなと思うけれど、映像も残らない、パンフレットとグッズと記憶のみになると尚更意見も分かれるのかな…
ともあれ、抽象的なモチーフからテーマを自分で見つける鑑賞になると自分の解を大事にするしかない、のでここに書くことは自分の解です。絵画鑑賞並みに感想が分かれるし、その分かれた感想を何からの縁あってかわすことが出来ればそれはとても有難いこととも思う。
グイドをそんなにクズと思わずその背景に思いを巡らせる鑑賞になったのは、第一に舞台の上のお話であること、第二にインナーチャイルドとそのケアに焦点を当てて観ていたから、かな。
月組NINE上演が決まってから、2020年梅芸NINEの感想ブログをちらほら読んでいただけている形跡がアクセス解析上あり、今よりかなり稚拙な文章ながらアダルトチルドレンとしてのグイドとか言ってるし大体今と出力される感想は変わらなくて。かつそもそも自分の生育環境が終わっているので相変わらずインナーチャイルド概念とやっていってるわけですが、私の場合はある程度知識があると舞台の上と自分の感じ方に線を引いて考えながら観れる、のかなぁ、と思いました。
苦しい作品ではあるんですよ。私は大体ミュージカルだとホモソーシャルに憧憬を抱きそうなれない自分に項垂れており(手放しにホモソ批判できない女性の観客とかいうあんま言いにくいポジション)、NINEは自分が欲しかったものと重なったりもする。だから一幕最後の「そんなに急いでどこへ行くの」が苦しかった。しょぼい会社員の自分と映画を作るグイドとでは違うところが多すぎるけれど、自分の与えられなさと急ぎと折り合いを投影しちゃった、かなこの苦しさは。私の人生の中にサラギーナもいませんでしたが…(それはそう)
ママから与えられなかったものは他の女からも与えられないし、得られないし。一番欲しいものが得られないと分かって折り合いがつくまではずっとそのままで、折り合いをつけるというのは現実に目を向けるということで。映画という現実じゃないものを作れてしまう人はそこで現実から逃げることが出来るし逃げてる自覚もなさそうで、そしてグイドは映画でしか愛されないと思っているところもある気がして。違うんだよ映画じゃなくてそのままの自分で、そしてたくさんの女性たちはママの投影先じゃなくてその女性そのもので。自分の頭の中と外の区別って案外つきにくくて、求めて求めて大変なことになって自分であきらめざるを得ないとままならないことがあるよね。女性を求めすぎてトラブルになりそれは自分が責任を負わないといけないし、それが過去のトラウマ由来であっても大人の自分が責任を果たさなければならない。ので、なんらか手当があるとよかったんだけど難しいし、イタリア男はみんなこう!みたいな雑ラベルで誤魔化されがちなところでもあるし。
急ぐのは芸術家だからじゃなくてそれしか知らなくて休むことが分からないからで、不倫は休むうちに入らないとかも気づいてなさそうだなと思った。急ぐのは自分の頭の中の考えや言葉には忠実だが人の言葉は聞けないからで、故にグイドを思ってのルイーザの言葉は届かなくなる。ルイーザのことも他の女たちのことも見てないな、と思ったけど見ると立派じゃない自分に気づくから見れなかったのかも。分かりやすく9歳のグイド(=ママの言葉も何も届かなくなった時)が出てくるが、その時から止まったものがあり届かなくなったものがあるのかも。その届かなくなったものをようやっと受け取れるようになったのがリトルグイドとの邂逅であり、リトルグイドが求めるものを大人のグイドは与えることが出来ると分かったとき、かな。小さい自分って誰の中にもいるんだけど、大人になるといることを認めるのが難しくなる。でも認められると自分も成長したな、と思える。
ということで、愛が必要なら自分で言えるといいね、と、人の立ち直りはいつでも、かな。不倫とかたくさんの女性が出てくるインパクトがあるけれど、この作品のテーマは大きくこの二つと受け取った。立ち直れるからこそつらいところにも目を向ける必要があるし、人間には目を向けて自分を変える力があるよ。人間賛歌、まで言うと大げさかな。
(自分の文体上あまり得意ではないが)生徒さんのことを書くと、先ず鳳月杏さんならではの男の表現が好きで、グレート・ギャツビーのトム・ブキャナンにおけるトキシックマスキュリティに震えたことを今でも思い出す。男の嫌なところを演じるのが上手いタカラジェンヌっているんだぁ…と思った。今回はどこか9歳のグイドが見えるような大人のグイドで、ともすると少し少年のような雰囲気も感じられた。
これはかなり恐る恐る書くんですが、一幕最後の夢奈瑠音さんのママの佇まいからモディリアーニの絵画を想起し、なんでかこの作品を抽象として自分が受け取ってるなと思い…舞台の上って抽象の逆の連続だと思ってるし、タカラジェンヌってモディリアーニの絵画と逆ではっきりした存在だし(なにを言っている?)、でもモディリアーニみを感じ…と思ったらじゅりちゃんとか他の方々からもモディリアーニみを覚え、不思議な体験でした…人がそう見えることってあるんだ。もちろん生徒さんたちの演技力と作品と後は本番特有の空気が合いまった結果そう見えた、のはそうです。この体験から、芝居が見たくて宝塚観てんだよなを思った…
モーリー・イェストンの音楽がいいね
モーリー・イェストンの音楽、人の心の機微を音にするとこうも素直で、こうも繊細か、と毎度感嘆しています。レース編みのような細やかさもあれば、何か巨大な建造物あるいは圧倒される自然みたいな大きさもあり、特にNINEではファントム同様宗教音楽のモチーフもあり、もっと音楽が分かればもっと楽しめるのにな~と思う次第。讃美歌とかわかったほうがいい。キリエエレイソンも分かったほうが多分いい。大きなものへの祈りや救い・赦しを求めることを音楽で表すとNINEになり、ファントムになり、また西洋音楽でそれを表現することは必然的に宗教音楽を用いることになる。デスホリの月の満ち欠けもモーリーが音にすると陰りとその前の明るさがあり。音源欲しいね…そういやレスピーギ好きだけどかの人もイタリアだったな…これは余談。
男に都合のいい話、じゃなくてもっと普遍的なテーマ、人には愛が必要でそれを素直に言えるといいね、と、人はいつでもやり直せる・立ち直れるということを人間らしく表現するとこういう音楽になるのか!という感嘆があるよ。
知識として頭に入れていたもの
自分が散々苦しんだということからインナーチャイルド概念とケア…みたいなかんじで、アスクヒューマンケアの「アダルト・チャイルドが自分と向きあう本」「アダルト・チャイルドが人生を変えていく本」この2冊は折に触れ読み込んでおり、今読むと大体グイドだな~と思ったり。
幼少期のことや原家族のことはあまりインターネットに書かなくていいしXに書いてインプレッションがついて気持ちいいものではないですが(おすすめ欄における不特定多数からのインプレッションはいつでもあんまりよくない)、もしNINEを観てそれがトリガーになり苦しくなった方がいたら、何らかケアにたどり着きますように…と思ってここに書きます。
自分が宝塚ファンのボリュームゾーンではないだろう、は生育環境が終わりすぎているからで、それ故に知識をつけカウンセリングに通い生き延びてきたけど、別に生き延びって劇場で言うことでもないしなぁ、で今に至ります。誰が観劇感想と住民票閲覧制限の話を同じドメインのブログに書くねん。と思いつつもし同じような境遇の人がいたら、と思って一緒で書いてるんですけどね。
でもさ~、キリエエレイソン使われてたけど、憐みの中では人は救われないし、宗教的なもの・教えも大事なんだけど、それだけじゃ立ち直れないんだよな~とか思う…自分に信仰心がないからですが。宗教が落としてるものがありそれが別の形で今回収されてるな~とアスクヒューマンケア周りなどを観測しながら…。しかしながら、教えがありそれが絶対であることは迷いが減るということで、認知負荷は低いね。自分は信仰心がないが、宗教が必要とされる文脈や場面がある、はないなりにそっと眺めている…
結びに
観れてよかったです。今後また宝塚で上演されるかは分からないけれど、だからこそ。男に都合のいい話に見えるものではあり、人の頭の中は原則板の上で表現しないほうがいい(わかりにくいし都合がいいから)までは思うものの、美術館の中で鑑賞してるみたいな作品に仕上がってて楽しかったです。絵画と違って視覚情報に音までつくからミュージカルというものは刺激が多いし、脳が疲れるんだけども、たまにはこういうのも観ておかないとなと思った。シンプルなもの、普遍的なメッセージを受け取れるよう自分のコンディションも調整しておかないとね。
小さい余談
2018年10月に退団した92期と、ちなつさんのお手伝いをしていた101期がかつての贔屓であり(退団したからかつて表記ね)、なんだかしみじみしてしまった。そしてある程度退団を経験すると、今の贔屓って誰だっけ…みたいな曖昧な感じになるし、そもそもこんなブログを書いている者が表に出していい情報だろうか…と警戒してしまうし。そしてこれは自分が古いだけだと思うのですが昨今のスチールケースやキャトル公式の名札?みたいなの見るとえっ好きな人の顔や名前を人目につくようにぶらさげる!?そんなことしたら好きな人が誰かバレちゃうじゃない!?!!となってアッアッとなっている陰キャです…

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