誇りを抱いて ビリー・エリオット2024感想文

ミュージカル

まだ観るけど感想文書きます。現時点でみれてないキャストえいとビリー、はまめぐさんウィルキンソン先生、山科さんオールダービリー。(いうてアンサンブルの中の山科さんは割と追っているが…)これから観るので…

今の気持ち

2017年初演に1回、2020年再演に4回観て、その間に社会情勢は変わり、自分の状況も考えも変わり、それでも尚私がこの作品を愛し続ける理由が明確になったと思っています。
ビリー・エリオットを観て不思議と力がわいてきて、それは人生を丸かじりして味わい尽くしてやろうという力で、つまるところ生命力が強くなった感じでしょうか。エネルギーがふつふつ沸き上がり闘志がメラメラ燃える感じは久しぶりです。観るだけでこんな気持ちになることあるんだ、もあるし、やはり何かアクションを起こしたくて考えている、調べている、そうした状態です。つまるところ、観てからめちゃくちゃ元気で、なんにでもなれる気がしています。

劇場について

今回は梅田芸術劇場ではなくSkyシアターMBSでの上演ですが、梅芸よりコンパクト・なため、より熱気のある上演となっていると思います。梅芸でロイヤルバレエの幕観たことなかった気がするから、今回観れて嬉しい。ロビーのガヤガヤ感が心地いいとかアクセシビリティ観点の話はまた後日。

一階最前列~二階最後列まで同じ価格はさすがに無理があると思うけれど、でもビリーはここで観れて結果分かることが多かったかなぁ。私はSkyシアターMBSを愛しているし、KITTEと共に育つ劇場がこれからどんな変化を見せてくれるか楽しみなので、残りも真剣に観て真剣に劇場の中を歩き回ります。

芝居の重さについて

2024年今回は芝居が凄くヒリヒリ感じられて、観ているだけで息切れしました…こんなにしんどい芝居あるかよ。
それは、エリオット家のこと、ウィルキンソン先生の家族のこと、炭鉱夫たちにもスカブにも家族がいてそれでも、それだから、を読み取ったからかな。

家族のこと

エリオット家のお母さんは手紙の中にしかいないけれど、お母さんが亡くなってからエリオット家は見て見ぬふりをしてきたことがあるんだろうな、と思った。
アングリーダンスに入るより前の場面、チェ・ゲバラシャツを着てバールを持ったトニーとお父さんの応報、トニーがお父さんに「母さんが亡くなってから粗大ごみ」と言い捨てるところ、お母さんが亡くなってから家族の形が変わったことを受け容れられなくてそのタイミングでストがあった、そしてストが家族を変えた、を感じた。家族って自分の意志だけではどうにもならなくて、ストだったり自分を取り巻く環境を大きく変えてくれそうなことがあればそっちに乗っかって勝っていきたい、変わっていきたい、良くなりたい、はあるからなぁ。お父さんのほうが理想主義に見えるけれど、ストにのめりこんだトニーこそ現実が見れてなくて夢を見ている感じがする。一発逆転狙い的な。お父さんもトニーも、もう一度、願わくばお母さんがいた時のような”家族”に戻りたいんだろうけれど、それは叶わない話で…

アングリーダンス前のウィルキンソン先生とトニーの応報、前の見えていないガキを鼻で笑っていなすかのようで、それでますますトニーがヒートアップしてるように感じたな。ウィルキンソン先生の話をちゃんと聞けばそれはトニーが折れることになるからとにかく怒鳴ってるのかな、も思う。バレエは上流階級のもの、鼻持ちならないもの、敵なんだよね。家族を家族に戻すことの敵であるバレエのためにお父さんはスト破りをして、炭鉱の皆も、スカブさえもビリーのためにお金を出す。もう元の家族には戻れないし、トニーが信じたストも終わる。ビリーの人生は前進しても、炭鉱は閉鎖される。全部が上手くいく物語だったらするっと気楽に観やすかっただろうね、そんな物語であれば夢中になれたかは分かりませんが…

もう一つの家族、ウィルキンソン先生とデビーと夫。ウィルキンソン先生はビリーに「めったくそ特別」と言うけれど、デビーはそうは言ってもらえない子供。少し大人びた振舞やビリーの気を引こうとする言動が苦しくなる。デビーは、ビリーに言われるまでもなく自分がバレエに向いてないと分かっているのかもしれない。でも続けているのはウィルキンソン先生に見てもらうためだろうか。デビーの家庭環境は良くない、だから見てくれる人が欲しいのだろうと思う。
二幕のクリスマス後にお父さんがウィルキンソン先生の家に行くところ、出てきた夫は態度が良くないし、デビーはウィルキンソン先生を睨みつけんばかりの勢いでじーっと見ている。ウィルキンソン先生にかかったものは重そうだ、そしてそれはデビーにもかかる。どうしてこうなっちゃったんだろうね。
余裕がある家庭なら違ったのだろうか、問題のない家庭ならデビーはこうならなかったのだろうか。別にだからってデビーが不幸せと言いたいわけではないのだが、ビリーに向けられた「めったくそ特別」はデビーが一番欲しかったものだろうし、でもデビーのほうを見ていたらウィルキンソン先生はビリーを見つけられなかっただろうな。めったくそ特別は、何の犠牲もなく見つかるものではない。

書いててキッツいな、と思ったしそれに目が向く自分のことが尚キツイけどもうちょい書く。
おばあちゃんの歌にもあるように、炭鉱の男なんて全員ろくでもなくてでもおばあちゃんはくれてやるのはこの指一本と言い切る強さがあった。ウィルキンソン先生はトニーのことは罵れても、お父さんにお願いは出来ても、ビリーは励ませても、それ以外は上手くいってなさそうで。上手くいってない時ほど見つけられるものもありますが。ウィルキンソン先生の諦めたもの、見つかられたもの、を思う。

この話は出てくる人みんなさっぱりしていてそこが好きなんだけど、お母さんもビリーを最後見送って消えたように思うし、ウィルキンソン先生も「ここで学んだこと何もかも忘れる」って言ってたし、湿っぽい母性を女性に求めてないところがいいのかもな。尤も、母性は国家により作られる側面があるものだし、そのへんのようなことはパンフレットにも書いてある。ビリーは手紙書くよとかこの街のことを忘れないようなことを言っているけれど、覚えてちゃダメなんだよね。(と、これ日本だったらみんなでビリーをお見送りしましょう!とか帰省をするんだぞ!とかやってそ~~~~~と思った、そういう話じゃないから観てますが…)

ビリーがいなくなったあと、ウィルキンソン先生はまた逞しくやっていけるのかな、お父さんとトニーとおばあちゃんで家族をやっていくのかな。うまくやれるといいな。

炭鉱夫たち、スト、社会構造

このあたりは毎度パンフレットに詳しく時代背景書かれているところです。これを書いている今私は会社員11年目で、労働について、社会構造についての見え方は年々変わっているところで、構造の変化と合理化の中で切り捨てられるものについては日々心を痛めているところです…自分がいる業界はまだマシなほうなのかもしれないけどそれでも、マシなところから社会を見ているのかな、の罪悪感もある。

2017年、2020年はまだ少しだけ希望が持てて、特に2020年はコロナ禍だけどこれからどうなるのかな…の気持ちと、劇場でビリーにあえたことが何よりも嬉しかった。2024年の今はアメリカ大統領選があり、衆議院議員選挙があり…もう私はXで社会情勢を追うことをしていないがそれこそがゲーテッドコミュニティにいることなのかもしれないな、を思うし、反面自分のメンタルと日々の暮らしを犠牲にして情報を追い続けることのリスクも感じている。一体自分が見るべき世界はどこなのか、何が正しいのか、を日々模索している。だからか、今回の芝居はいやに重く、リアリティのあるものとして受け止めたし、受け取りすぎたのかアドレナリンが出すぎて都度幕間に息切れしていた…

一幕最初のほうはまだストに対して楽観的で男性たちも元気そうだったし、二幕最初のクリスマスも元気そう、でもお父さんがスカブになってビリーの夢をかなえるために動き始めてから、炊き出しの量は減ったし、ストは終わり、冷たく暗い炭鉱に帰っていった。ビリーがバレエに出会わなくてもストは終えざるを得なかっただろうし、でも続くストの中で少しだけ、大人たちが気を楽にできたのがビリーのことだったんじゃないかな。どんな状況でも子供は大切にしないといけないから…それはかわいがるとか愛でるとか癒しにするんじゃなくて、前に進む力がある未来あるものに対してとるべき振る舞いということで。

合理化、自動化は傍目からみると良いことに見えて、特に自分のいるところから遠い話は得てしてどうでもよくなる。誰だってそう、いつだってそう。サッチャーのとった政策とその結果は歴史の通りであるけれど、その歴史の中にも人間がいる、人間の暮らしがある。暮らしを忘れて何かが進み経済がよくなったようになるのはいつの時代もそうだ。ビリーの輝きの後ろに見える歴史、炭鉱夫のエネルギーに胸がキュッとなる。

2020年のパンフレットに「過ぎし日の王様」の歌詞、2024年のパンフレットには「星たちが見ている」の歌詞が書いてあって、改めて読み比べると星と地の底で対比になってんだなあ…あと2024年のパンフレットの表紙にちょっと炭鉱を感じさせるモチーフが描いてあり、その意図を考える。

ビリーとマイケル

一服の清涼剤のようなExpressing Yourself、完全にショーストッパーな、マイケルなのか、演じている役者なのか…を愛さずにはいられないこの場面が大好き。ビリーが自分を表現することの背中を押している場面でもあるし、ひたすら楽しい。その後の芝居がものすごいしんどいですが…(トニーとお父さん)
こういう場面もあるし、大人同士のひりついた芝居もある、がいいよね。

マイケルは女性の服が好きでビリーが好きで、ビリーの良き友であるな…。それはマイケルが〇〇だから女性の服が好き、ビリーが好き、と定義されているのではなく、やりたいからやっているという自発的な気持ちに基づいているのがいい。マイケルの趣味はいいよなあ、1960年代のスウィンギンロンドンを感じさせる、1984年より前の柄(ともすると古臭く感じるような柄かもしれない)を、かーっこいい!と選ぶのがたまらない。最後、ビリーを見送るマイケルの頬への口づけがほろ苦い。マイケルの未来もまた明るくあってほしい。ビリーがめったくそ特別であること、マイケルのただやりたいからやる、どっちも尊いものである。

そのほかキャストそれぞれの話みたいなこと

はやくえいとビリー観たいよ~~~~~!とか騒いでますけども(今まだみれてない)、今回もとってもレベルが高くてひっくり返っちゃった…ビリーの反応に対して変わる大人の芝居、大人同士のぶつかり合い、ヒリヒリした芝居、たまらない、ずーっと観ていたい、ここから先11/24で千秋楽なのが信じられない。深まっていく芝居を客席から追えるのがたまらんわね…現時点で観れてるビリー三者三様、歌も芝居もダンスも方向性が違って、表現の仕方が違って、伝わるものが違って励まされる。こんなにも尊い役者の皆さんが揃った芝居で元気にならないわけがない。というかビリーが好きすぎて、今回も売れ行きがどうとかですが、初日に当日券買った瞬間、SkyシアターMBSでスキップしそうに嬉しい気持ちになった(30代半ば劇場ロビースキップはさすがに…)

今回は特に、西川大貴トニー、吉田広大トニー、益岡徹お父さん、鶴見辰吾お父さんの違い、男同士のひりついた芝居に殴られたような衝撃を受けて、タイムリープして東京初日から通ってチケットを買い占めたい気持ちでいっぱいです。何を言っているの?
ストの捉え方、家族の捉え方、コミュニティの捉え方の違いとそれでも守りたいもの、それでもビリーを応援するだとかをずーっと考えている。炭鉱とコミュニティに重心を置く鶴見お父さん、家族に目を向ける益岡お父さん、ストが上手くいくと盲信している吉田トニー、うまくいかないことの答え合わせにかかる西川トニーみたいなことを感じていて、すごくしんどい。
ずーっとお父さんとトニーの芝居がひりひりしてて頭から離れなくて、「街をひとつにして何になる、炭鉱を再開して何になる、家族をまとめて何になる」の悲痛さが刺さる。お父さんは頭を下げることを恥だと感じているように思う、素直に話すことはこんなにも難しくなったけれどそれは多分個人のせいではないなあ、長引くストは家族を変えてしまった。お父さんはあの時代の炭鉱の男性だから、もある、素直に頭を下げられない、皆からお金を受け取るところも「すまない」と言っている。

ビリーとお父さんの芝居もいいな、特にロイヤルバレエのオーディション後、お父さん退場の時、益岡お父さんの「息子です」は嬉しそう、鶴見お父さんは誇らしそう。でも「スト上手くいきますように」に対しては二人とも暗い顔をする。家族をまとめるためにはならないこと、コミュニティのためにならないこと、やってはいけないことをしてまで来た場所だからね…

Solidarityの演出の巧みさには毎度舌を巻く。こういうのは大人同士の戦いにしても厳しいものがあるし、子供の成長だけにフォーカスしてもだれるので、バランスがちょうどいいと思う。訳詞もいい。

稽古場のほうが振りがわかりやすいな。

相変わらずアンサンブルはなぜか照井さんばかりみており、カテコで丸山さんみるか照井さんみるか迷って桐人さん見るみたいな感じです…好きな演目大体照井さん出てるな~うれし

そのほか

公開する前提でだらだら書いてたらこの文字数になりました…まだ芝居の中で受け取れていないことがあるな、も思う。ダブルキャスト、クワトロキャストそれぞれの良さも語れていない、語りたいよ~

我らが西川大貴さんの動画流しながら色々書きながら、階級、階層、社会構造のことを考えなくて済むたべやすいものばかり好まれているきらいがあるよな~とは思っています。もちろん現実に向き合うばかりが褒められることではないし、向き合うことはめちゃくちゃ体力が要る。ぶつかる話を避けて当たり障りのない交流をすることがコミュニケーションとしてよいとされるし私もそれは意識的に処世術としてやる、だから尚更それに疑問を抱く。現実問題、政治の話はあまり人としていない。この冬の気落ちする時期にうっかりSNSで発言して燃え広がることを恐れてもいる。でも自分が暮らすことと政治、社会構造、階級、階層は切り離せない。

こんなこと書きながら自分は自活できるだけの稼ぎがあり、正規雇用を切らしたことが無く生きている。途中で実家から逃げ出すイベントとそれに伴うあれこれはあったものの、それ以外は元気。でもずっと、居心地の悪さがある。劇場の中と外は地続きで、カズオ・イシグロが言うところの「縦の旅行」を意識して生活できなければ劇場がただのゲーテッドコミュニティになってしまう、と思う。自分が入れてもらえないゲーテッドコミュニティに忍び込んだ気持ちになることがある。しんどめの感想文を書いて流すのが好き、は少し反旗の気持ちもある。あなたが意識していない階層の者が隣の席にいるかもしれない、それは私かもしれない。

選挙が終わった、政治が変わるのかな、あまりにもしんどくてパレード、ラグタイムを思い出す。ラグタイムから一節歌ってやっと身体が動く。11/17にビリー・エリオットを観ていた。よりによってこの日に。どうか社会が良くなるようにと祈る気持ちがある。受け取る芝居はずっと重い、重く感じるならばその分体力をつければよい。現実を人生を丸かじりして味わい尽くしてやろうという力をこの作品から受け取ったのだから。

なっが。わらっちゃった。よかったらマシュマロ、waveboxでリアクションいただけますと励みになります。ブルスコ、Xでのリプライ、DMも歓迎です。よろしくお願いいたします。

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