そもそも私がやってるのは推し活ではなく観劇ですが…と言い始めて静かになったところで再び話し始めるのですが、推し活って崇められたり下に見られたりで便利な単語になっちゃったな、と思う。人の営みがゼロ100で割り切れるものでもないのに、ぜったいにいいものかぜったいにわるいものかみたいな。なんで私にはこう見えるんだろうなぁ…
推しは老後の面倒を見てくれない、はそう、推しは老後を支えてくれない、から福祉の拡充を!にはならないのかな~、血縁が面倒見てくれるとは限らないのだし。でも”推し活”なんてしてる連中に血税で福祉なんて!ってなるのが素朴な感情としてあるのかもね。推し活依存でもないマウントもしない清らな自分でありたい心理も分かるけれど、それだとなんにもならないし発展しないし…いや発展させなくてもよくて、内輪でこれだから推し活は、って言えたらいいのかも。そして福祉のことが知られてなさすぎるな。まあ福祉の話は別でしたらいいか。
推しって何だろうな、金の切れ目が縁の切れ目の関係のこと?何だろう、感情の振り方とかで定義されるのかな。わかりたいけどこれはきっとわからない。
今年は九連休で、最近土日ずっと予定入ってたし4月に異動してから突発では休みにくくなり、疲れてくると他人に言われたことと親に言われていたことが重なってポキッと折れそうになる感覚がある。まだ頑張れるのか、実はとても無理をしているのか。そもそも一緒に働いている人たちは家庭があり、家事を自分で100やらなくてもいいということに気づいてしまった。気づきたくなかったなぁ。そんな人たちに合わせて朝7時出勤とか終電まで働くとかはあんまりよくない。炎上してるときに家に帰らなかった話を聞かされてもそっすか…としかならないよなぁ。今の案件無理なのかな。
こうして口数が少なくなり睡眠に全振りするけど、ほんとはせっかくSNSやってるのならおしゃべりをしたり、皆さんの様子を見たりしたい。ずっと同じことを言っている。
沈みそうな日々の中一緒に食事ができたり言葉を交わせることは希望で、有難いなと思う。こういうのが大事で労働ですり減るのは何にも大事じゃないよほんと…FIREしたいとも思わないけど(そもそも生きていくことに希望を持っていないため、労働の中の活動や趣味のことで保っている)、身体がもつかな、は思う。他の人がやらないでいいことをずっとやっている。これで健康体ならいいけれど今年も医療費は10万円を超えた。色々控除を入れるとふるさと納税できる額はすくなめ。医療費がなかったらできることは結構あるなあ…今年の家計簿締めたり医療費集計して、単身独居身寄りなしで諸々行政の世話になりながら働き暮らしてるのって偉いかもと思った。その暮らしの慰みになることのひとつが観劇でそれが推し活呼ばわりされるのももうなんでもいいや、一人でやってるし誰がいくらつかって何度観てるかもあんまりわからないけれど、楽しかったことなど感じたことを共有出来たら嬉しいしそれでいいや…
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