色々ダメなのでBlueskyのアカウント停止してます。が、日常生活を優先した感じです。Discordにはそこそこいる。住民票閲覧制限更新の支度をする話、調子が悪い話(調子がいい話してたことあったか?)、関心領域とご自愛のこと。なんでも言葉にしてしまうのは良くない、の話。大丈夫じゃない人の大丈夫じゃない文章なので、嫌な感じがしたらそこで読むのをやめてください。
住民票閲覧制限更新時期である旨の案内が来ました。
これからのタスクは、警察に電話して住民票閲覧制限にかかる支援措置を継続したい旨伝えて来署の約束をし、警察署で住民票閲覧制限更新したい旨伝えて、警察署長決済なのでちょっと待って…という感じです。決済通ったら自治体の役所に持って行って、更新完了です。
このブログのアクセス解析見ると、閲覧数ダントツ一位が住民票閲覧制限更新だし、住民票閲覧制限でGoogle検索すると2ページ目くらいに出てきますね。読まれていて有難い反面、そんなにこの情報必要とされているのか…と気落ちすらあります。ちなみに二位以降は白鳥エステ、なるべく観てすぐ書く新人公演感想文など。
毎度思うけど観劇する層って広いようで自分みたいなのはあんまいなくて、同じドメインでごちゃごちゃに書いてるのって読みづらいだろうなという自覚があります。バックグラウンド含めた人となり込みで読みたい派の人にはいいかもしれないけど、情報だけ欲しい人にはあんまりよくなさそう。今更か。
先週はものすごい体調悪くて、起き抜けの検温は平熱、ギリ熱出てないくらいの感覚で仕事してたら帰宅即37.4度くらいあってひっくり返って、でも家事をしないと暮らしていけないので洗濯や料理をしていました。
7月入ってからかな、思いのほか疲れているというよりボロボロ寄りで、これトラウマの再演じゃないかという行動も思考も言動もあり最悪で、だからといってそれで何かが解決するわけでなく。
嵐が過ぎるのを待つためのご自愛が出来れば、良かったですね。そのためのリソースがずっとないんだけれども。急に仕事休んだら回らない人員配置だしなぁ。ご自愛、セルフケアのための予算と時間配分一緒に考えてくれるAI…というかAIをそう使えるように自分が習熟したらいいのか。あとカウンセリングの頻度が落ちてるとよくないな。カウンセリングは観劇と同じくらいかかるけど今どっちが大事だったっけ…になってしまう。ちょっといいご飯数回と同じ値打ちのあるカウンセリングを求めてしまう。ケアに回すお金を作ろう、と自分が楽しいと感じることを削ってちょうどいい支出になるのかなケアってお金かかるばっかりで面白くないな、なんて…
で、ちょうど社内でケア要員として便利遣いされそうな瞬間があり、これまでの角を立てない態度から理由つけてNOを言ったところだけれど、便利遣いのシチュエーションに入ってしまったのもトラウマ由来なのかな、わかんないな。
これくらいダメなときに住民票閲覧制限更新時期の案内が来ると、風呂で溺れそうになるし涙が止まらないなどの反応があり、ろくでもないことです。こんな手続が不要な人生を送りたかったですね。
仕方がないので手続きをなるべく早く済ませて、自分が受けた仕打ちを認めて、なるべく次のことを考えるしかないです。ケアの資金を増やしたいから稼ぎを増やしたいなぁ。自分でも扱いきれないからお金で解決したいなぁ。その経験があるから今のあなたがある、みたいな慰めについては、原家族での経験がなければもっと稼げただろうね、で返すし、気の毒がられるよりも「実家がない分孝行費用の節約になるねw」って言われるほうがいいな。
この間「関心領域」という映画を見に行きまして。これ、言及して賢くなったつもりになるワードになったりもしてるけど(かなしい)ほかの事象を簡単にアウシュヴィッツになぞらえるものではないのと、ああ恐ろしいことだ、自分は無関係だ、で目を伏せるのもまたライフハックでご自愛とされるんだろうな。って最近ご自愛について延々考えてるから思った。
居心地の悪さ、知識として知っていることがスクリーンに映る時の不快感などがあり、でもその不快感とか見たくなさのために鑑賞してるからある意味正解だったかもしれない。ガザのこととか国際政治が背景にある、もよくわかって、もう自分のことだけでボロボロですけど、なんとか関心を減らさないように、何が出来るアクションかとかを考えてやっていきたい。
ただ、自分のことで精一杯なんだよなぁ。タイムラインに様々な話題が流れるのが見える、多分これが正しそうだと分かる、でも風呂で溺れかけるとかのエラーを吐いてるとき、正しいことより、自分のことをさせてくれないかな。
ご自愛、で目を背けてやり過ごすことは古くから推奨されているけれど、戦いのための一休みなのか、自分はそれに関与せずとも生きていけると認識するためのご自愛なのか、はあるね。だからご自愛って言葉は好きじゃないんだよ……
実家の人々が問題から目を背けているあいだ、私は怒鳴られたり監視されたり対等に扱われない体験を家庭の中でたくさんしており、でも「ご自愛」をそれぞれが行うから、私のことはなかったことにされてきたな。ご自愛を自分に向けるとき、これでどれだけ見落としたり、自分ごとでなくなるんだろうな、を並行して考えてしまう。
組織で働く上ではケアワークでタダ働きさせられない為に線引きは必要だけど、それはそれで悲しいなと思う自分がいて、でも利害関係の駒にさせられるのも嫌で。当事者性と働いたり暮らしたりの距離を模索している。とりあえず今は全部しんどい。
誰だってそうかも、線引き。隣でどんな惨いことが起きていようと先ずは自分の手の届く範囲の幸せを大事にしましょうとか、ご自愛のススメ的なものを刷り込まれてるもんな。私も今そうせざるを得ないし。
小さく生きる、ご自愛ご自愛を向けられる時、なんかこう成人しているのに乳幼児の手遊び強いられる感じして居心地悪くて。それがちょっとは言語化できたかな。
でもなんでも言葉にしたらいいというものではなくて、言葉になったぶんしんどいしなぁ。言葉にするより先に寝たほうがいいよ。
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