三演目となるライムライト、今年も観ることが叶いました。感想、自分と重ねたこと、思い出したことなどをつらつら書きます。
ライムライト あらすじ
1914年、ロンドン。ミュージック・ホールのかつての人気者で今や落ちぶれた老芸人のカルヴェロ(石丸幹二)は、元舞台女優のオルソップ夫人(保坂知寿)が大家を務めるフラットで、酒浸りの日々を送っていた。
ある日カルヴェロは、ガス自殺を図ったバレリーナ、テリー(朝月希和)を助ける。テリーは、自分にバレエを習わせるために姉が街娼をしていたことにショックを受け、脚が動かなくなっていた。
カルヴェロは、テリーを再び舞台に戻そうと懸命に支える。その甲斐もあり歩けるようになったテリーは、ついにエンパイア劇場のボダリング氏(植本純米)が演出する舞台に復帰し、将来を嘱望されるまでになった。かつてほのかに想いを寄せたピアニストのネヴィル(太田基裕)とも再会する。
テリーは、自分を支え再び舞台に立たせてくれたカルヴェロに求婚する。だが、若い二人を結び付けようと彼女の前からカルヴェロは姿を消してしまう。テリーはロンドン中を捜しまわりようやくカルヴェロと再会する。劇場支配人であるポスタント氏(吉野圭吾)が、カルヴェロのための舞台を企画しているので戻って来て欲しいと伝えるテリー。頑なに拒むカルヴェロであったが、熱心なテリーに突き動かされ、再起を賭けた舞台に挑むが・・・。
シアタークリエ『音楽劇 ライムライト』
老いること、情け、ケア
5年ぶりの再演で、キャストが変わったこともさることながら自分の状況も変わり、感じ方も変わりました。それでも、いつ観てもライムライトの輝きは変わらないなと思いながら。
この作品のいいところは老いを綺麗なものとしていないこと、個人の喜びを丁寧に描いているところが好きです。ポジティブな力強さではなくまさにライムライトの灯のようなはかない輝きとあたたかさ、そうしたものをつないで人は生きている。
今の時代ってキャリアビジョンだとか将来どうなりたいかとかライフプランとかわりとギチギチに求められると思うんだけど、別に個人の喜びをつないで生きる、のでもいいのかなと思えてくるのです。むしろ、大きい希望を持たせてそこに向かって頑張らせるようなビジネスつまり資本主義的なものが今蔓延りすぎているとも言えます。(そういう業界で働いており、ある程度割り切ってその中で評価を受けることで見えてくるものもあるため、全面的な否定はしませんが…でも、そればかりだと、しんどいことがあるね)
一幕で最初のほうでカルヴェロがポタリングから哀れまれて「ポケットの中の財布から必要な分だけ持って行けよ」と援助を受けるところでカルヴェロの落ちぶれ方がしんどくて。これは去年自分が病気したり、2019年の再演から5年のうちにあれこれポジティブでないことがらがあったのでそもそもウィークネスフォビアと助けられてばかりの惨めさを身に染みて思うから、はあるだろうな。そこ投影するんかという話ですが…
カルヴェロはテリーを助けて支えるために、ユーモアを交えてめいっぱい励まし、時に叱咤する。このくだりは、きっと彼は笑いで人々を救ってきて華々しい活躍をしてきたのだろうなと思わせる。でも実情として彼は人から施しを受けざるを得ない状況ではあるし、ふとしたところで惨めな気持ちになっている。
けれど、テリーを励ましてきたことはカルヴェロ自身にも返ってきて、助けること励ますことは自分自身を支えることになるのだ、とわかる。ここに相互ケアの構造があるのがいいなと思ったし、多分これらは我々観客の身近にもあるものだろう。カルヴェロは施しを受けたり哀れまれる老いぼれの立場だが、施しを受けることはケアにはならない、誰かを励まして支えることは自分自身へのケアになる…みたいな。
ご自愛ご自愛言われるとしんどいし、でも周りもそれしか言いにくいし、そうなると自分がどんどん惨めなものに思えてきて消えちゃうよなあ…だからそんな中で、たまたまテリーに出会えたのは良かったんじゃないか、と思う。自分は施されるだけのものではなく、誰かを支えることが出来る、というのは希望足り得る。
しかしながら、テリーの若さと未来を見ると、たとえ結婚を望まれていたとしても自分が身を引くべきだとするのはわかってしまうな。上手く言えないけど、居ちゃいけない感じ、この状況はスッと消えたくなる。チャップリンもそうした気持ちをライムライトに託したのだろうか。
一幕でカルヴェロがテリーを励ます台詞が全部良いね、生きることは欲望だ、意味などない、薔薇は美しく咲きたいから咲く…とか、死と同じように避けられないのは生きること、とか、この辺はチャップリンの名言として世に出回ってるものだけど、ユーモアの中に生きること死ぬことを混ぜる重みがある。
それは、チャップリン自身がどん底の中で戦い、人を笑わせ続けたからだろう。
困窮の中で育ち、第二次世界大戦を生き抜き、全体主義への反旗として表現し続けたチャップリンの言葉が、それ単体よりも映画なり舞台の上のほうがより輝くなと思った。だからライムライト好き。
チャップリンの言葉については、NHK読むらじるが詳しいです。
チャップリンの「絶望名言」前編|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじる
チャップリンの「絶望名言」後編|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじる
初演はもう少しサラエボ戦争の影が濃くて、再演以降は二幕最後のほうのみとなった「反戦のんきソング」が一幕にもあったのだけど、今回はより個人の支えあいや心情の変化に焦点をおいた演出になっていると思った。反戦のんきソングの滑稽さと風刺はチャップリンをよく表している感じがして好きですね(初演の、武器を持ってもばらばら 鉄砲を持っても撃てない みたいな歌詞とか)
一幕最初に出てくる「1914」はサラエボ戦争開戦の年で、もうこれだけでも分かる人には分かるような気もする、語りすぎるとテーマがぶれるかんじもあるけど、どうだろうね。
二幕でカルヴェロにかけられるのはやはり情けで、流しをやったりサクラを仕込まれた舞台に立ったりがあり、その中で周りから気の毒がられているのが分かって、でも周りはかわいそうな年寄り、気の毒に…というやさしさなんだろうなぁ。老いたもの、弱いものに対して気の毒がるのって、優しさかもしれないし、気の毒がることで対等に見ないで済むのもある。
そんな中でテリーがカルヴェロを支えるのはただただ愛で眩しすぎる感じがした。支え励まし助けてくれたカルヴェロを慕う気持ち、支えてもらった分今度は自分が励まし支えたいから結婚、になるんだろうね。こういうのは上手く言葉で説明できないが、やはりカルヴェロとテリーの間は対等な相互ケアがあるように思う。ケアは対等だけどそれぞれの未来の長さと輝きが対等じゃないからカルヴェロは引いてしまうが…
情けとかケアとか考えながら観ていたけれど、やはりカルヴェロの歌うEternally、You are the Songはほろほろ涙が流れてしまうね…ひたむきな温かさを感じた。
他人から一方的に気の毒がられることは惨めに思えるのに、自分から能動的に誰かをケアすることは自分を励ますことになるのってすごい人間らしいことだと思っていて。そんなことわざわざ書かなくても暗黙の了解かもしれないけれど、人の温かさをライムライトひいてはチャップリンを通して感じます。
生きていくのは、温かいほうがいいです。
キャストそれぞれの良さ
初演から続投組の安定感と今年の新キャストの新しい風、いい座組です。
石丸幹二さんカルヴェロの方の力が抜けた芝居は唯一無二のものだなぁ。当たり役だし、今回はチャップリンのことを予習してから観たのもあり、こういうところ寄せてるのかなぁ、なんて思った。
朝月希和ちゃん(退団後初めてみた)の無垢なテリー、静かなお芝居でよかったな。残酷なまでの無垢さ、ひたむきさがカルヴェロの光になったのだろう、と思った。
太田基裕さんのネヴィルのはつらつとした若さはテリーにぴったりで、この並び見たらカルヴェロは引いてしまうよ。ネヴィル以外の新聞売りとか植本純米さんとのガヤ芝居とかも楽しそうで良かった。
植本純米さんは初演から続投ですがずっと存在感強くていいですね。そこにいるだけで独特の存在感、のポタリング、はカルヴェロに負けない感じ。薔薇の花~
吉野圭吾さんの役はバスター・キートンも投影されてるのかな、カルヴェロの盟友みたいな並びがよかった。岩持ってるとこでえらい顔してて笑っちゃった。
保坂知寿さん、知寿さんみたいなおばちゃんが出来る、芝居を締める人がいるといいですね…ピシッとした感じ。今回の座組の年齢層もあるし石丸さんと馴染む人を選んでるのがよくわかる、これは知寿さんの役という感じがあります。
中川賢さん、所作ひとつひとつ、手の使い方、身体の使い方が綺麗…盆栽とか色々面白いこともやる役ですが、好きなのは一幕いわしソングの間男とか、二幕オーディションでポタリングの腕を揉まされてるのとか。
舞城のどかさん、初演から続投ですが、ダンサーかつ落ち着いた表現が出来る人じゃないといけないポジションだなと思いました。静かな芝居の中で踊りすらも静を感じさせる。
また生演奏音楽の荻野清子さん、佐藤史朗さん、坂川諄さん、岸倫仔さんも初演から続投で、盤石の布陣で三演目固めてるなと思いました。チャップリンの音楽はこれくらいの人数がいいよ。
この作品は静かで落ち着いたもので、今後もこれくらいの周期の再演で受け継がれたらいいな、と思います。
今回のプロモーション映像など
あとがき 私とチャップリン
仰々しいタイトルですが、この文章を書いている人とチャップリンのことを。今回ライムライトを観るにあたってチャップリンのことを予習している中で思い出したのが、
高校一年生だか二年生だかの英語の授業でチャップリンの映画「独裁者」の演説を暗唱したことです。
いい加減な生徒でしたので、暗唱のふりをして手元の紙を見るタイミングをうまいことはかって…みたいなズルをしていた気もしますがそれはさておき…
「独裁者」の演説はこちらのブログが分かりやすいかな。
私の観劇スタイルは気が向いたときにむさぼるように情報入れて糧にした気になる、みたいなのが多くて、こうして観た後すぐにブログにしているのは消化して血肉にした気になりたいから、はあります。
仕事柄生成AIとかは避けられないけど、AIに人間性を乗っ取られやしないか、とか杞憂で終わらせたいことを、久々「独裁者」の演説読んでて思いました。
チャップリンについては引き続き色々調べたり本を読んで知りたいと思っているところです。
「独裁者」しかり、今の時代でも人々を励ますような作品を作ることが出来ているのはとても素晴らしいことだと思う反面、「独裁者」のwikipediaに、自伝の中で「ホロコーストの存在は当時は知っておらず、もしホロコーストの存在などのナチズムの本質的な恐怖を知っていたら、独裁者の映画は作成できなかったかもしれない」と書いてあり、誰かを励ましたり戦ったりはある程度知らないことがないと難しいのかもなぁ…を思いました。自伝はちゃんと読む…
今年2024年は「関心領域」という、ホロコーストの収容所のすぐそばで暮らす人々がホロコーストから目を背けていた…という映画が放映されましたが、知りすぎると正気を保てないから情報から距離を置くとか、対等にとらえずに気の毒で仕方ないと割り切るとかは生き抜く知恵かもしれませんね、と思わされるもので。でもそのほうが都合がいいから情報統制されていて、その情報統制のなかでチャップリンは表現することで戦っていたのかな。
チャップリンのいいところは貧しさとか苦しい状況を美化せず惨めだと捉えていることで、これは貧しさすらポジティブ変換して糧にしろ!という時流への反旗で、チャップリンが言葉にしてくれたから自分が荷物を下せているところがあるなと思います。病気したり役所に定期的に行かないといけない暮らしの荷下ろしをこのブログでしているけれど、しなくていい苦労、惨めさは存在するので、言葉にして下す、あわよくば誰かが言葉をかけてくれる、反応がある、それでいいしそれがいいのかも。
別に無理にポジティブにならなくてもいいし、定量的に評価されるようなDE&I文脈で輝かなくてもいい、でも自分が温かいと感じるもの、嬉しいと思うことは大事にして生きていくのがいいんじゃないか。
観劇なり読書なりで一人で自分の中で深めることをベースに、できるときの発信で少し外向きになることがあるといいね。
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