書くことは希望の光 ファンレター@兵庫県立芸術文化センター感想文 2024.10.5

お手紙

最近は消費や浪費などなど鑑賞する姿勢について、ことSNSにおいては意見が分かれることもあるように見受けられます。個人的には、それってそんなにはっきり分けられること?と思ったりもする。言い切ったほうがSNSでは注目されるし、言葉は強いほうが共感を得られる。
ただ…自分の鑑賞においては、願わくば一つ一つ向き合いたいし、言い切れないことも含めて自分が思ったことを書き残しておきたいなと、「ファンレター」を観て思いました。

1930年代日本統治下の韓国が舞台になっていますが、私の祖父がその当時韓国にいたことを思い出しました。祖父は5年以上前に90代で亡くなり、韓国にいたころはまだ幼かったと思うけれど、だからといって彼が支配側の人間であったことは事実です。祖父について実家に確認が出来たらいいのだけど、それは叶わないのでご容赦ください…(叶わない理由は毎年8月あたりの過去ブログ読んでください)
祖父のことは好きだったけどね…

韓国ミュージカルは最近よく見るけれど、その当時の時代背景や構造であったり人物の描きかたがいいな、と思うことが多いです。私は性根がケチなのでチケット代のもとをとるべくその構造を、人物を少しでも理解して帰りたいなと思うのだけど、わかりすぎると刺さりすぎる、もあるんじゃないかな、を思った。孤独とか、支配される側のこととか、実は分からないほうがいいのかもしれない。ずっとそう思いながら色々観ているね。

それで、今回の「ファンレター」はタイトルだけではどのような物語か想像がつかず、しかし最近はほかの人の感想を読んで予習する暇もないので(これはただ単に気候変動と労働で身体が追い付かないため)、パンフレットのあらすじだけ読んで臨みました。
客席で祖父のことを思い出しながらはたして…と構えながら。

「わかるなぁ」と思ってしまって言葉にするのは安っぽいのかもしれないけれど、チョ・セフンとキム・ヘジンそれぞれが抱える孤独と、孤独から生み出されたものと、その孤独には少なからず統治下であることが影響しており、読み解いていてそこに引き込まれる感じがありました。
演じられた海宝直人さん、浦井健治さんそれぞれ普段目にする姿とは立ち姿の雰囲気が違って声の出しかたも変えていたと思うのだけど、それでも歌や演技の伝える力が素晴らしかった…
ヒカルについて、確かにセフンが生み出したものではあり、ヒカルを通じてヘジンと交流できたことはセフンにとって光であり、かつヘジンにとっても生きる希望で光足り得たのだけど、光って闇、孤独と同じくらい引き込む力があるから危ういよなぁ…
ヒカルを消さないとセフンは救われなかったし、でもヒカルはセフンに必要な存在で、だから生まれてきた。セフンの生育環境も温かいものではなかったように描かれているし、ずっと孤独だったからヒカルを生み出してしまった、もあるな。

ヒカルの服装、最初のほうはユニセックスで簡素なものを着ていたけれど、その時点ではまだセフンの一部のように見えた。スカート姿であったり、だんだん女性の服装になってきてからはセフンの意志を離れた存在になったというか…コントロールできないものになっていった感じがした。自分でも自分の気持ちが分からないとかコントロールできないとかは誰しもあると思うけれど、もう一人作っちゃったらそれはそうよ。
思うに、ヒカルが消えてからやっと、セフンは自分の孤独に向き合ったりそれを受容したりケアしようとしたり、があって、ヒカル越しでないヘジンに向き合えたのではないだろうか。ヒカルはセフンを守る殻であり、城だったのではないかな。そこから出なければ何も変わらない代わりに、傷つくこともないから。(多分これはパンフレットに書いてある某氏の言葉に近いな)

セフンが自分と向き合えるようになる過程で7人会が結成され、ヒカルの小説が評価され、ヒカルがヘジンをコントロールするようになり、投書があり、せっかく出会えた仲間とのなにもかもが失われ、仲間も傷つき…真っすぐな道の中に向き合いはなく、傷つきの中でのとどめがセフンが「自分と向き合わざるを得ない」状況を作り出したのだとすると結構苦い。17場ヘジンの手紙、これはセフンにとって初めて向けられた愛情であり、そしてそれはヘジンが直に向けた光であると思う。
ここで、「奪われた野にも春は来るか」を思い出しました…

戦争があればPTSDが増えそれが家庭に持ち込まれ機能不全家族が増える…みたいなのは私の観測範囲ではよく言われているけれど、韓国の作品ってその家族由来の傷つきと再生を描くのが上手いね。そこで私からの共感が発生…日本の作品でそこに向き合えてるのってどれだろうね。日本はまだ家族主義でみんな仲良し楽しい我が家、みたいなの好きな気がするな。向き合うとしんどいしね。客席で自分の傷と向き合いたくない場合は選ばないほうがいいものもある。そこは好みだし、お金払ってまで疲れたくないときに観るものでもない。皮肉でも何でもなく、観れなさそうな時はそっと選ばない選択を取ったり、リセールがしやすいといいな、と思う。

しかしキャスティングの妙よ…海宝直人・木下晴香・浦井健治・木内健人・斎藤准一郎・常川藍里・畑中竜也みな素晴らしい!この作品を届けてくださってありがとうございます。
特に常川藍里さん演じるキム・スナムが純文学の力を信じたいとばかりに振り絞る台詞よ…ここが現代と繋がるようで、苦しいまでにその気持ちが伝わってきた。
戦争があれば景気が悪くなりそうなればプロレタリア文学のほうが強くなる。それは一見当たり前かもしれないけれど、そこで対立が産まれるのは苦しいし、世の中もそちらに目が向けば、7人会の信じる文学はブルジョア呼ばわりされるね…誰かを救う、誰かを癒す、その力を信じていたいし、自分もまたその気持ちに救われた。
今また演劇は不要不急と言われ、それについての意見で実際そうだなと思うことも多い。生成AIがどうとかで言葉も全部AIに奪われるのかなとかも思う、私はエンジニアで、先端技術を頑張らないといけないのにね。生成AIが演劇と同じくらい心を救う日も来るのかな。生成AIの大喜利は面白いけど…話が脱線してしまった。とにかく、舞台の上に救われた気持ちを忘れたくない、軽視したくない。

奪われた野、の奪う側に祖父がいたことは確かで、そこと自分の鑑賞体験はリンクするし、これからもずっとそうだろう。考え続けること、言葉にし続けること、そして願わくばその言葉を誰かと交わすことが出来れば、幸甚である。

ボロボロに泣いて劇場を後にして、いつものように西宮北口駅に向かうのではなく、なんとなくアクタ西宮まで歩いてそれから帰って、そして見上げた夜空がいつもよりも綺麗に見えた。見える景色まで変える作品に出会えるから、観ることはやめられない。まで書いて、そうだったなアクタ西宮も祖父との思い出の地だな…

(マシュマロでもXでもブルスコでも、感想頂けますと励みになります。)

コメント