普段なら触れないことを長期休暇で時間があるからって…でも燃やしたいという意図はなく、ただ「依存症」という言葉の使われ方がひっかかってそこから深掘りしています。他人事じゃないし自分は渦中の側だろうな、も思う、知識を入れずに他人の話にするか、自分の話にするか。私が観劇しては長いブログを書いているのは自分の話にしたいからだろうな。
「1億総推し活時代」ブームで増える”不安と悩み” 独自調査で判明した「10~70代」のリアルな本音 | 沸騰!“推し活”経済圏 | 東洋経済オンライン
↑言及されてるのこれね。推し活と括られるものに対してお金や時間の使い方が生活に支障が出る距離であること、推し活仲間との金銭感覚の違いに無理して合わせていること、推し活にのめりこんで多額のお金を支払ってしまうのはある種の人間関係依存症であると西村光太郎氏(久里浜医療センターという依存症治療を専門とする医療機関の医師)の指摘が記載されている。
推し活の話はそもそもあんまり興味がないんだけど、といいつつXのおすすめ欄は推し活概念に批判的な言葉が多くて、年末に時間があってしまうものだからつい目に入ってしまう。(Xはログアウトしていたほうがいいのに。)批判的になる時、自分はそっち側とは違うという気持ちとか、自戒とかがあると思う。
こうした記事が世に出るのも、推し活をトリガーとして人間関係がおかしくなること、生活に支障が出るくらいお金を使うことへの警鐘であり、社会問題となっていることは理解できる。
でも、それは本当に「推し活」だけのせいか?それがきっかけで問題になったけれど、それ以前の問題がないか?はた目から見ると急に人が変わったように推し活にハマり出し時間とお金をつぎ込み…に見えるけれど、そこに至るまでに本当に何もなかったのだろうか。蒔かない種は芽が出ない。まあ分析されるの嫌なオタクが大半だし私もそう、問題があったから推し活依存になったのだ!も言われたくないでしょうね私もそう。問題がある=推し活依存という単純な方程式ではなく、少しずつ掘り下げるべきものが簡単な言葉で広まっていることにしんどさを覚える。警鐘はそれでいいんだけど、今の認識のまま依存症っていうなら「覚醒剤やめますか? それとも人間やめますか?」の時代からほんと、なにも変わってないじゃん。推し活をやる人間そうでない人間の分断をしたいならそれでいいけど、そうじゃないでしょう。
私の場合は実家でのことがあったから(詳しくは過去ブログ掘ってください、ここで書くのは重すぎる)劇場が逃げ場だったけれど他にもやることがあったのと、学生時代は学校、働き始めてからは会社も逃げ場だったからギリ分散できただけで、別に他人事じゃないな。
社会運動に、仕事に依存して家庭がおろそかになることだって依存で、家庭崩壊ならまだいい、仕事へ依存「させられる」ことで過労死もあるんだけどな、とか考えてて、依存「させられる」構造を我々は見落としてはいないだろうか、推し活依存を個人の責任と捉えて他人事にしてはいないだろうか、まで行きあたった。じゃあ子供に依存して子供をコントロールする親も依存症に近いところにいるよね?とか話の広げようはあるけど、推し活という行為そのものに議論でもないおすすめ欄へのエアリプやレスバが向けられてるかな。医師の言及も一言だけだし、(これは紙面の都合もある)あの記事ではそうなっても仕方ないか。
【Crossing-クロッシング-】「覚醒剤依存症患者が一番好き」闘う精神科医、松本俊彦さん 人のつながりが病を治す – 産経ニュース
コロナ禍始まりたての2020年頃、いっぺんに生活の場が家庭だけになってアルコール依存症が増えたという記事を読んだことをきっかけに、依存症のことに関心を持つようになり、松本俊彦氏の話だったらまあわかってそうだし安心して読めるかな~ということで依存症文脈で氏の記事を見つけては読んでいます。でも依然依存症は遠いところの話に見られるだろうし、スノッブになってしまった人たちには特にそう。依存症なんて恐ろしいものは遠いところの話で批判するべきものだから、自分を推せ!や身の丈!に始終する感じ。身の丈ギリギリを攻めつつは楽しいよ、はちょっと聞こえてきてそれはよかった。
意志が弱いから依存症になるのではない、とか、もうちょい啓蒙があれば、なぁ。今の状況で外野が依存症について!と言い続けるのを見ちゃうとますます分断が進むから、それぞれSNS見ないほうがいいな、と思った。見ちゃったから私もこうして書いてるわけだしね。依存症の話がおすすめ欄で消費される安っぽい話題になるのも嫌だし私の言葉もおすすめ欄にできるだけのりたくないと考えていますが…(毎度バズらんといてくれと思う)
松本俊彦氏は今のところ推し活の話はしていないけれど、依存症文脈で考えたい場合は氏のインタビューなり書いたものを読むのは何らかの足しになると思う。これはずっと言っていきたいんだけど、個人の責任の話じゃなくてそうなってしまった構造について考えたいし、人の推し活を嗤うなっていうか…考え続けてアクションを起こし続けるしかないよ。アクションと言っても大層なことではなくて、少し減らすところから、みたいな話。
楽しくて時間とお金のかかること、出来る範囲で各々やれるといいし、今無理をしていると感じているようなら少しだけ勇気を出して断るとか、お金をかける範囲を狭めるとかが出来るといいなと思うし、いや私にアドバイスもなにも権限はないのだけれど…
行動を変えるって脳の使い方を変えることだから負荷高いし一人で頑張れることでもないと考えているから、「推し活依存症」でもなんでもいいけど自助会があるといいなあ。
同じ悩みを抱えた者同士で集まって話して、が出来るといい。Xもその作用はあるかもしれないけど、同じ悩みじゃない人からの言葉は多分しんどいからそれが届かない場所があるといい。
依存症と言うのなら、本人も家族や近しい人もそれを相談できる機関があるといい。ただ推し活依存まで対応してるか、だよね…
バウンダリーのことも思った、自分は自分で他人は他人、の境界が引きづらい関係だと誰かと一緒じゃないと、はずっとある。別に推し活だけじゃないですよこれ。バウンダリーについての認知やトレーニングがなされていない人が多いねってだけで。推し活依存の話を掘るとバウンダリーには行きあたるだろうな。
掘り下げて何が出てくるか、どうしたいのか、健全ってなにか、不健全とどう違うのか、実子依存で友達親子は仲良しで済まされて虐待に目を向けられないのに?(←家族主義が嫌いすぎるだろ)、などなど、ほんっとうにさーーーー、ねえ?なんですかこれは。140字の連投では思考が進まないからこうして長文を書いているし、来年もギリギリを攻めたいから年間の固定費変動費で予算を組むし家計簿やらカードの明細見るのは毎日してるけどそれは自分が軽率だからで、別に自分が正しいって言いたいわけではない。生きる意味の感じられないこの世界でギリギリ楽しみが見つかったの感覚があるしずっと危うい。最近ちょっとずつ先の見通しが立ってきてよかったね、は30代半ばだと遅いんだけど、それはさぁ実家の…っていうとなんでも実家のせいにするな親孝行しろって言われるんだろうな。偏見が強すぎるか(実家のことは過去ブログ参照)
すいませんね、こんな話で。とにかく依存と自分を分断しちゃあんまりよくないよ、これミュージカルでいろんな演目がかかってるのに観たくらいじゃ人は変わらないどころか気づかないし、とかも思ったね。読んでくださる方は観劇界隈が多いのかなと思うから例えが観劇だけど、劇場の中と外は地続きだから、観てない時の気づきが大事だと思うよ。チケット代が高いから観劇と勉強とブログ書くまでがセットになってしまった者より。
マシュマロを置いておきます、お手柔らかに願います。
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