5年前と回復 12月9日の日記

teal white and pink paint お手紙
Photo by Zaksheuskaya on Pexels.com

5年前と今を比べると本人比だいぶ丈夫になったけど、丈夫になった秘訣もなにもなく、環境変えただけかも。よって汎用性の高い話は出来ないけれど、n=1のここにいるよ、の話は出来るな。そして人に救われているタイミングは必ずあって、それは再現性がないとか特権的だとか言われることだ。

5年かけてある程度の回復、あるいは成長があって、それは自分だけの物語で他の人の話にはならなかったな、を思う。他の人の話と比べては病むし、足りないところばっかなんだけどな、でも生きていくんだな、という無理やりの自己受容の繰り返しですよ。冬はとにかく気落ちするし、生きてる意味はあんまり分からないけど、つらかったことだけは覚えている。

そんなことは別によくて、今ここの自分が何をしたいか、何が必要か、が大事そう。最近は昔のことが今のことように思い出される頻度は下がったし、キツめの気落ちの頻度は下がった。発生しないわけではない。それだけでいいのかなぁ。記憶は心とかの曖昧概念じゃなくて脳のことだから、脳が落ち着いたのかな。

お金の自由は実家にいたほうが効いただろうけれど、親孝行にかかる費用、行きたくもない旅行代も自分持ちとかあるし、だったら別にいいかなと思う。特に医療費は実家にいたら何をしていたのか見張りがあるから健康に暮らせなかっただろう。出かけるのもそう。
自分の帰りを待つ人がいる暮らし、帰りを待つ人が安心できる人、せめて加害しない人であればいいかもしれないけど、それはまだ難しい。家にいる人を100信用しても、人間は何らかのトリガーで加害を起こすものと思っているから、緊張感と厳しい境界は必要ではないか。考えすぎかな。残念ながら、虐待を受けてきた自分が加害する可能性は高い。自分がされて嫌なことは人にもするだろう。
一緒に暮らすこと、はあらゆる加害のトリガーになるとかの話、だいぶ極端な話。一人で暮らして隔離されておこう、はずっと考えてる。

一人で静かに暮らす、たまにお客さんが来てくださる、今はそれだけでいい。それだけで有難い。だからその有難さを自分で潰さないよう努める。特性上困難なことがあっても、ある程度は自分を律していくものだ。ありのままでは受け容れられず、適度な緊張感を必要とするものだから。

今の気持ち、もこうして書いておくことで少しは後で役に立つだろう。これはブルースカイやTwitterに落とすよりか、ブログのほうがよい。

コメント