やつの名はスウィーニー・トッド 20240427スウィーニー・トッド@梅田芸術劇場 感想文

ミュージカル

スウィーニー・トッド観てきました。観て一晩経っても興奮冷めやらぬ状態で、演目が自分を離してくれなくて、困るね。
人間は愛おしくて哀しい存在だ、という前提と、200年前と今とでは社会構造は変わったのだろうか?という問いを容赦なく突き付けてくるところが好きなんだなと思いました。それは日ごろ自分が考えていることでもあり、考えていることがミュージカルになるとしんどい、ということも。
舞台観るのって癒しとか活力とかよりも、考えることとある種しんどさ目当てのところもあるので、今回も観れてよかったです。

この感想文には、相変わらずのネタバレと「この役のここが無理」が含まれます。この役のここが無理、は、演じられている役者さんが無理ということではありません。むしろ、皆さん大好きです。大好きだ!と思う人が演じる姿を無理に思うくらい徹底した演技で、役者さんってすごいのです…

キャストはタービン上原理生・アンソニー山崎大輝・ジョアンナ唯月ふうか・トバイアス加藤諒で観ました。

ソンドハイムについて

私はウエストサイドストーリーが大好きで、ソンドハイムが自分を離さないのだ、などの戯言を言うくらいには一種の特別な感情を抱いているのですが、稽古場ダイジェスト動画の宮本亜門さんの言葉でそれがなぜかわかった気がします。

これの30秒~の、亜門さんがソンドハイムのことを「人間のことが大好きで、でも人間のことが怖くて」と言っているのが全てなように思う。この稽古場ダイジェスト見たのが昨晩観たあとで、もっとソンドハイムのことを知りたいなと思った…
ソンドハイムの目で捉えた人間のこと社会のことを教えてもらった気持ち。

市村正親/スウィーニー・トッドについて

2024年4月時点で75歳ってマジかぁ…となってます。氏の凄みや執念を感じる芝居においては右に出る者はいないと思っていて、持ち味の一つである暗さとギラつきと陰をスウィーニー・トッドで堪能した気分。生命力の強い舞台姿にこちらも元気を貰ってしまった。スウィーニー・トッドって救いのない話なのに…
一幕序盤の「隔離病棟に入れられたって生き延びてみせる!」みたいな台詞(うろ覚えです)で図らずも本当に元気になってしまって、おいおいおい舞台役者ってどこからでも人に影響与えてしまうんか…となりました。
スウィーニー・トッドは正しくなくても生命力の強い役で、ひたすら義憤で行動していて、でも人を殺し続けるほどに見えなくなっていくものがあって、本当の目的であったジョアンナのこともルーシーのことも分からなくなってしまう。せめて少しでも復讐ではなく相手の顔を見て落ち着いて話せたら、とは思うものの、自分の信じる正しさに駆られている時に落ち着くことはなく、後悔するのはいつもやってしまってからだ。もし、スウィーニーがジョアンナとルーシーを取り戻して温かい家庭をやり直せるルートがあったとしても、ミセス・ラヴェットは幸せにならないのでこの結末でよかったのかもしれないけれど。
一幕冒頭、フリート街にスウィーニー・トッドが戻ってきたところで目もくれなかったけれど、乞食女になったルーシーはスウィーニーだと分かっていてだからずっと近くにいるんだよなあ…どうして分からなくなってしまったのか。でも、分からなくなるところまで・引き返せないところまで来てしまったのだ。そういう意味では、ミセス・ラヴェットが剃刀を持っておいてくれたことは不幸中の幸いでもあり、最悪の事態のトリガーにも思える。

ちなみに劇中で、スウィーニーがオーストラリア・シドニーに島流しになっていたことが触れられていますが、その当時オーストラリアはイギリスの植民地でした。詳しくは以下のURLをご参照ください。

大英帝国の流刑と迫害の歴史を語る世界遺産!オーストラリアの囚人遺跡群 – skyticket 観光ガイド

上原理生/ターピンについて

役としてすごい無理で上原理生は最高だな、という気持ちに…
ターピンとかいうキショ性欲老人が物語の諸悪の根源なのかな、こんなきついことあるかぁ?と思った、実年齢と離れた役だからか描きこみと誇張の多いメイクで、ターピンの顔見るのも無理になってきた。
社会的地位の高い男性が自分の立場を利用して女性に暴行を加える、とか社会的地位が高いが故に周りはそれを止めない、とか現代でもあることで、本当に最悪だ。ターピンは判事の地位がある故に歯止めがかからない人間に成り下がっていった。
一幕で上裸で十字架に跪き自分を鞭打ちながら「ジョアンナは大人びてきていた(おそらくは、大人びてきていたから性的な魅力が増して、故に自分のもとにおかねばならないということ)」と神の前で言えるのは、自分でそれを悪いことと思っておらず正しい振る舞いと信じているからなんだろうな。神の前で、は免罪符になるのかな。愛情よりも支配欲と、支配欲に動かされた性欲と、誰もそれを止められなかった、見てみぬふりをしていたこと。
ここで、はたして現代社会にターピンはいないと言えるのだろうか、自分の近くにもターピンはいないか、見てみぬふりをしているものはないか、という問いが産まれますね。
あるいは、自分自身がターピンではないか、という問いも。
誤ったことを、正当化していませんか?誤っているという認識を持つ機会は、ありますか?うわぁ~
というのも、恵庭市の障害者が就労する牧場での搾取だったり、天台宗での性暴力だったり、似たようなことが今も多すぎるのよ…

スウィーニーとターピンは対になる存在で、人間はどこかの分岐でスウィーニーになり、ターピンになり、たまたま権力を持っていたからターピンになっただけで…ターピンはスウィーニーに始末されなければならなかったんだよ。

細かいとこだけど、ジョアンナに結婚を申し込むとビードルに告げるところで、ビードルは無精髭剃って身綺麗にしろと言ってるのにターピンはプレゼントで懐柔する案を通そうとするの、話が聞けない人の挙動で、おりますねこういう人…と憂鬱な気持ちになった。まあ最終的に殺されてたし、いいか…

こがけん/ビードルについて

小賢しい妻子持ち男…彼もまた、ターピンの太鼓持ちをすることで生きていったんだろうけれど。
ターピンの近くにいてターピンを止めなかったのは彼自身が生き延びるための戦略であり、妻子のために仕方なかったのかもしれない。倫理観も人権意識も生き延びることの前では無力なもので、正しくあることって別に意味のあることではないかもしれない。再度の問、じゃあ200年前と今って、ここ違いますか?
ジョアンナへの暴行、アンソニーへの制裁に加担しているが娘の誕生日は早く帰りたいところだけ人間味がある、とか、本当によくありすぎて…

で、こがけんターピンの所作がいちいち綺麗なのと、ちょっと色気を感じるのと、歌がゲネ映像よりもぐんと良くなっていて伸びしろすご!となったのと、でもあっさり殺されるところで爽快感を得てしまった。懲らしめたりわからせるのを好む構造はよくないけれど、この劇の中に呑まれると倫理的に良くないこともエンタメになる。そしてこがけんは上手い、芸人の歌うま枠に留まらずもっと芝居が見たい、芸人がミュージカルに出ると、持ち味を押し出すのではなく引いて合わせて出すところは出す、が見えてそこに惹かれる。

加藤諒/トバイアスについて

実は舞台で加藤諒初めて見たけどとてもいい芝居をするね…繊細で表現力が素晴らしい。トバイアスで出演してくれてありがとうです。

この物語で唯一の善性であり正気である、と思った。確かに彼は足を引きずっているし、弱い立場であるように描かれている。役に立つのは嬉しい、言うことを聞かなければならない、で理髪師のピレッリに飼い慣らされていたけれど、弱い立場でも置かれた場で一生懸命生きて、その場その場で正しいことを精いっぱいやろうするところが苦しかった。
二幕ではミセス・ラヴェットが編んでくれたマフラーに喜びながらもピレッリが殺されたのではないかと疑い始め、それが故にミセス・ラヴェットに殺されそうになるも生き延びて、そしてパイ屋の秘密を知ってしまう…までの芝居のつながりかたがよかった。みんなトバイアスのことなめてかかってるけど、弱い立場のものであっても正しいことは分かる、けど弱い立場が故に解決が遠い。
スウィーニーを殺すところ、「人を殺しちゃいけないんだ…」で刺すのは彼なりの正しさで、でも警察が来た下りではミセス・ラヴェットに教わった通りひき肉の装置を回して、撃たれて殺されてしまう。あのひき肉装置から出てくる肉は、誰の肉だろうね…

一幕の「牧師はいかが?」はいろんな職種の人間を皮肉っているけれど、風刺の対象は権力者でありトバイアスのような弱い立場の者は含まれていない。弱者を風刺の対象にするようになったらおしまいなので(もうすでに現代日本、現代社会はその傾向がありますが)、トバイアスはせめて権力者の肉を何も知らずにひき肉にできてたらよかったのかなぁ…

誰も相手の話を聞いてはいないこと

スウィーニー・トッドの面白いところもう一つ、登場人物みな自分の利益を優先して相手の話を聞いていないところです。人間ってわりとこうだから…
ジョアンナとアンソニーは互いの目に映る自分の姿を見ているようで、ジョアンナはターピンのもとから抜け出さないといけないし(抜け出したところで治療は必要と思うけれど…)、アンソニーは恋に恋する自分が好きでなんだってできる気になってるんだろうな、というので利害関係~と思った、でもなんだって出来ちゃうから銃持って精神病院にも行けちゃうね…

ミセス・ラヴェットは気のいい未亡人のおばさんだけど、再婚して幸せな家庭を持てたらなぁ…という気持ち一つでスウィーニーに加担していく。悪い権力者やスウィーニーに不都合な人間を殺すのは一種の世直しで、別にいいか、と倫理観が飛んでいく。人殺しよりも幸せな家庭が彼女の目的なので。そしてスウィーニーの目的は、ミセス・ラヴェットとの結婚ではなくルーシーとジョアンナを取り戻すことのはずが、復讐心に駆られてターピンを殺すことそのものにすり替わっていったわけですが。
これ観てる側も観てる最中は倫理観飛んでって、二幕でパイ屋が繁盛する裏で人がサクサク殺されていく・スウィーニーも髭剃りつつ歌う片手間で殺していくのがエンタメになっていて、正直ちょっと愉快な気持ちで観ていたので、観客の倫理観飛ばすとこまでがソンドハイムの狙いなのかな…

ちゃんとお互いの話を聞けたらなぁ…愛する人と結ばれるとか、家庭を持つとかの慎ましい願いが叶えばよかったのに。

アンサンブルも音楽も最高ということ

今回アンサンブルがオペラ・声楽の人ミュージカルの人半々くらいで、こうじゃなきゃソンドハイムに立ち向かえないのよ!最高!となりました。
オケもハープが入っていてストリングセクション大盛り上がりで(特にグロテスクな場面でノリノリのストリングス)、でも楽曲はミュージカルというよりオペラや現代音楽の技法もあって難解で、もう音楽そのものがスウィーニー・トッドなのだ!みたいな…

スウィーニー・トッドの楽曲は、基準音も導音もオケが鳴らしてない中歌う、みたいなのも多くて歌いにくいだろうなぁと思うんだけど、聴いて歌い出すのが難しい分指揮者・渡邉晃司さんがかなり分かりやすく振っていて、オケピと板の上と舞台転換etcスタッフさんのチームワークを感じました。音がきっかけで装置を動かすところがほとんどだからね。
渡邉晃司さん、経歴調べたら上垣聡先生に師事されていたとのことで納得です。あの喋る棒は上垣さんだね…

観てよかった

観てアドレナリン出すぎて別演目観て今まだ手が動くのでこうして書き続けてるのですが、よかったです。スウィーニーの言うように悪い奴らは地獄へ、弱者は天国へ行ければ良いのですが、現実は往々にして逆ですね。あと宮本亜門演出は私にとっては当たりはずれあるなと思ってるけど、宮本亜門もスウィーニーに魅入られたのかな、とか、語り続けなければならない物語である、とかを思います。

4月初旬に「カムフロムアウェイ」を観たけれど、スウィーニーとは真逆の人間の善性で出来た力強い物語で、でも分岐が上手くいくとカムフロムの善性、人間が意識して人間をやらないとスウィーニーの地獄になるんじゃないか、と思います。つまり二つの話は別世界ではなく地続きだよなあ。
それで、カムフロム観たときと同じくらい元気になって、こうして熱弁をふるっているのです。

宮本亜門がパンフレットに書いたように、将来を悲観せず、スウィーニーの物語から受け取ったことを周りに還元したり、立場の違う人たちに思いを馳せて少しでも良い行動・利他的な振舞ができれば、未来は変わるんじゃないか、スウィーニーは人を殺し大切なものまで失ったけれど、スウィーニーのエネルギーを持ち人間であろうとし続けることが大切ではないか。
人間は思うままに振舞うだけではターピンやビードルに成り下がってしまうから…そして権力の構造からしてターピンやビードルであったほうが得をする、残念ながら世の中はまだまだそのままで…その構造に反旗を振り、人間であろうとしつづけたい。

そんなに読まなくていいけど書いておきたいあとがき

エピローグで出演者全員が「あなたの後ろにスウィーニー・トッドはいる」と指さすところ、後ろにいるどころじゃなくてスウィーニー・トッドは自分の中にもいるんじゃないか、と思ってしまった。
観劇の感想で自分自身の過去の話をするのは良くないかもしれないけれど、このブログでは度々書いていることで、かつて自分が家庭で虐げられていた時に誰も助けてくれなかったことは、自分の中のスウィーニーを育むのに十分なんですよね…
自分の中の傷つきとか負の体験・感情は、鑑賞する上で自分と役をリンクさせたりとか物語の構造を捉えるうえで役に立つこともある、別に傷つきたくはなかったですが…
自分の中のスウィーニー・トッドが剃刀を研ぎ始めて復讐を目に宿し始める前に、人間には、ケアが必要ですね…も思ったので自分を大事にしましょう…

構造云々言ってるのは、スウィーニー観る直前に読んでた「パワハラ上司を科学する」という本の影響ですね。アフェリエイトリンクを貼りますので、ぱおぴの足しになってやろうかな、と思われた方はリンク踏んでってくださいませ。

文章長いとか、この話しろとかなんかあったらマシュマロ投げてくださいませ。

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