観てきたので感想文です。2018年に1度観ているのですがその時はパッとした感想が浮かばす、でもそういえま真島茂樹さんが振付だったなぁ、(2025年からみて)去年亡くなられているなあ、もしかすると今観なければならないのかもしれない!と思い立ってチケットを取りました。
公式サイトはこちら
2025と2018のPVを並べてみる。
まあ古いっちゃそうなんだよね、伝統、しきたり、家族、宗教。私と合わなさそうなものばっかじゃんwと思わなくもないけど、でもね、好きなんですよ。貼ったPVの台詞で泣けるくらいには。なんでこんなに感じるものがあり、涙が出るんだろうなぁ。自分のことと重ねた共感でもなさそうです。
あらすじ
1905年― 帝政ロシアの時代、アナテフカという寒村で酪農業を営むお人好しで働き者のテヴィエ(市村正親)は、信心深くて、楽天家で、25年連れ添っている妻のゴールデ(鳳 蘭)には頭が上がらないが、5人の娘たちを可愛がり、貧しいながらも幸せな日々を送っていた。
長女のツァイテル(美弥るりか)、次女のホーデル(唯月ふうか)、三女のチャヴァ(大森未来衣)ら年頃の娘たちの今の最大の関心事は、自分たちの結婚について。今日も村に住む世話焼きのイエンテが、ツァイテルに縁談を持ってきている。娘たちは気もそぞろ。娘たちにとっても、姉さんが早く結婚を決めてくれないと、自分たちに順番が回ってこないからだ。だが一方、ユダヤの厳格な戒律と“しきたり”に倣い、両親の祝福が無ければ結婚は許されない。
そんなある日、金持ちで肉屋のラザール(今井清隆)からツァイテルを後妻に迎えたいと申し出を受けたテヴィエは、酔った勢いでついつい結婚に同意してしまう。長女の結婚相手が見つかったことで妻のゴールデも大いに喜んだが、当のツァイテル本人には仕立屋のモーテル(上口耕平)という相思相愛の存在があった。ツァイテルとモーテルの熱意に心を動かされたテヴィエは、ついに若い二人の結婚に同意する。が、結婚の許しを同時に二つも出してしまったテヴィエ、ゴールデやラザールに何と切り出せば良いのやら…。
さらには、次女ホーデルは革命を志す学生のパーチック(内藤大希)を追ってシベリアへ旅立ち、三女のチャヴァはロシア人学生のフョートカ(神田恭兵)と結婚したいと言い出し駆け落ち同然で家を飛び出す始末。そしてテヴィエ一家にも、革命の足音と共に、故郷を追われる日が刻々と迫っていたのだ―。
屋根の上のヴァイオリン弾き STORYより引用
ジェローム・ロビンスのこと
日本で上演された作品だとウエストサイト物語、王様と私などでお馴染みのジェローム・ロビンスがこの屋根ヴァのオリジナル演出・振り付けです。ユダヤ人のこと、ユダヤ教のこと、希望を見出してアメリカに移り住んだ親世代への眼差し…みたいなことが今回のパンフレットに書いてあるのだけれど、屋根ヴァ初演の1964年のブロードウェイにおいてユダヤ人であること、赤狩りのさなかにあることが彼にとってどれだけの苦しいことであったか…はぜひ「ジェローム・ロビンスが死んだ」をお読みいただきたい。古本で安く買えたりもするので。
共産主義に加えてユダヤ人であることと性的マイノリティであること、抑圧の中で作られた作品の中に見える希望に私は励まされているのかもしれないな、をいつも思う。かつてレッド・パージとブロードウェイみたいなことを分かりたくて図書館で読み漁った本のことを思い出す。私が惹かれる作品はいつもそうだ、どこか陰があるが絶対に励ましてくれて、力を与えてくれる。そして、ずっと構造を追いたくて観たり読んだりしている、はあるなあ。
ジェローム・ロビンス自身のルーツであるユダヤのことを舞台で表現することで何らか荷を降ろせていたらいいな、と思った。
慈悲の眼差し
ジェローム・ロビンスが表現したユダヤの人たちのことを真島茂樹が日本版振付に落とし込んだわけですが、宗教だったり家族だったりしきたりといった今どきでない感覚のもの、古臭いものでもスッと受け入れられるように舞台に落とし込み表現できているように思えたのは、描く対象について向けられた眼差しが極めてフラットだからではないだろうか。
冒頭の「しきたり」の踊りも面白おかしくしようとしたらどうしようもできるだろうけど、動き一つでしきたりを守って生きる勤勉な性質の人々に見える。娘たちの結婚に振り回されるテヴィエのこと、気弱そうに見えるモーテルのこと、進んだ考えを持つバーチックのこと、異教徒であるフョートカのこと、お金はもたらしてくれそうなモーテルのことなど、考えも姿勢も違う男性たちのことを誇張したり対立構造の中にいれるのに良さそうな形で描くことはそんなに難しくないだろう、と思う。でもそれをすればリスペクトに欠いた表現になるだろう。
まで思って、対象をあるがままの姿に捉えて特別誇張したり持ち上げたり下に見たりしないことこそが、慈悲の眼差しではないだろうか、と気づいた。あるがままの姿を描くことは自分の中の価値観をよほど確かなものにしなければならず、容易ではない。面白おかしくしたほうがウケるのは今だけでなく昔もそうだろう。でもそうしなかったのは、ジェローム・ロビンス自身が向けた慈悲の眼差しを真島茂樹が受け継ぎ、そして今回の振り付け補である日比野啓一が受け継いでいるのではないかな。
表現する対象と自分の間に境界を引き、境界の中から描くこと(対象と同一にならないこと)でも十分に表現できる、と思う。
これまで慈悲・慈愛とか慈しむことってべったりして境界をどろどろに溶かして一緒に泣いたり感情も脳も忙しくなるようで無理だったんだけど(慈悲・慈愛への偏見が酷いが今あんまり宗教を必要としていないので…)、あるがままを捉える・あるがままを生きる、だとわかる、わかるぞ…と気づいたし今回の観劇の中でこれが一番大きかった。
しきたり、家族、宗教
私と食い合わせが悪そうな概念だけど笑(実家逃げ出し界隈なので…)、それを必要する人たちがいるということが腑に落ちた。帝政ロシアの寒村で暮らすユダヤの人たちが、はたして一人ひとり個人で生きていけるだろうか?当たり前だが、現代の、自分の尺度で考えてはいけない。自分がいま必要としていなくてもそれを必要としている人たちがいることに思いを馳せることはできる。今の自分が必要でないものについて悪く言ったりするのは境界が溶けてるよなあ…何度もやらかしてますが…突然反省をし始めるなよ。
個で生きていくのは弱くて集団で生きていくのは弱いものの集まりでもなんとかなって、でも今の時代は集団を維持する体力がそんなにないね。個で生きていくことと資本主義は相性が良すぎるから、コミュニティを形成させて公共の概念と共に暮らすことは経済の観点からも今に合わないだろう。個で生きることを推奨すればセーフティネットの概念も弱くなるが…この辺り実家から逃げ出して単身独居で働いて暮らしているとあんまり言いにくいというか、自分に語れることはあるのか、と少し落ち込むところである。まだ落としどころが見つかっていないし、誰かのところに身を寄せていれば正解というものでもなさそう。
自己責任論のない屋根ヴァの世界線をネオリベ自己責任の現代を生きる我々が鑑賞して何らか感じるものを得る。こうした時間が持てるだけでも観劇という営みの値打ちが十分にあるだろう。
関連して思い出したインタビューを貼ります。10代の孤立という社会課題に取り組む認定NPO法人D×Pに掲載されているものです。
「ゆるい共同体」だったらつくることができる【内田樹さんインタビュー】(前編)
「ゆるい共同体」だったらつくることができる【内田樹さんインタビュー】(後編)
生きることと諦念
テヴィエもゴールデもしきたりの中で生き時代に翻弄されている。今の時代を生きる我々が果たして住処を突然奪われることはあるだろうか?理不尽ばかりが降りかかる時代に信仰なしで生きることは難しく、しかし信仰もすべて当てになるものではない。娘たちが思っていたのと違う形の結婚で離れていったテヴィエから住処まで奪われる、新天地のアメリカも彼にとって希望のあるものかは疑問だ。しかし生きていかねばならない。明るいだけが人生ではないのかもしれない。生きていかねばならないから、諦念がある。
ロシア人の巡査部長とテヴィエは旧知の中だけれど、それでも巡査部長に犬と言われたらテヴィエがワンと返すのは対等ではなく、その対等では無さも諦念によって受け容れているのかと思うとやるせない。個の自立を叫びやり返したり戦ったりすることが出来る人たちばかりではない。個人の自由と尊厳のための戦いと、生きるための諦念は相性が悪いなあ…どっちが偉いというものでもないのだけれど、戦いを選べる立場にそもそもなく諦念しか選択肢がない人たちのことはいつも見落とされがちだ。終演化されるというのはそういうことで、当事者のことを分かろうとしなければ、あるいは尊重する眼差しを持てなければ「どうして諦めるんだ?きっと成功できる!」という無遠慮な言葉までが早そうです。これはどうしたらいいんだろうなあ…
自分が自分の人生の座長であるということ
観たのが大阪公演千秋楽だったので市村正親座長のご挨拶があり、めちゃくちゃ元気で観てるだけでも元気貰えちゃった。いいなあ、私も、自分が自分の人生の座長であると捉えて元気に人生を暮らしを引っ張っていきたいと思った。これは現場にいないとなかなか分からないし、劇場に足を運ぶ理由の一つだね。
コメント