立春を前に

photo of planner and writing materials お手紙
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2023年2月4日が立春ということで…そういえば最近陽ざしが温かくて、今日なんて上着を着ずに昼休み外に出たら、背中が温かくて気持ちよかったな。

わりとわあわあ生きてきて、特に2019年8月以降実家から逃げてから今までというものだいぶ波乱万丈だったように思います。
イベントの数と感情の起伏をどうにかやりつつ、楽しんだり、生き延びたり、より豊かでありたいともがき続けたり…ふと、どうしてこんなにももがき続けて、なりたいもの・なりたくないものを極端な位置に置いてきたのか考えてみたところです。

原家族の話ばかりするもんじゃないけど、昨今のリスキリングの話で思い出したこと。
父親は資格取得しまくって、それで会社から出る手当で稼いでいた側面もあるので、それに追いついて追い越したくて頑張ってたとこある。資格試験以前の問題が多くてまだ奮わないけれど…ケアワークを母親に担わせて自分は問題と向き合わずに仕事ばっかしていた父親への恨みはまだあるなあ、父親からの虐待もあったなあ、常時表に出るものじゃないけど。父親の年収越えたいんだな、と思った。
ケアワークですり減りたくない、は母親を見ていて思うことで、普通より手のかかる子供がいるとキャリアを諦めて恨み言ばかりいうようになるんだな、相性の悪い義実家があると子供に当たるんだな、友達がいないと子供を友達代わりにするんだな、虐待があるんだな、そんなものにはなりたくないね!と軽蔑していた。ミソジニーが含まれており厳しい。ケアワークをする存在は弱い立場でなりたくない、みたいなのは、よくないよ…

母親が私を産んだ年齢だし、父親が父親になった年齢も近い。何を成し遂げることが出来て、何が出来なかったか…とか考えてしまう。他人の物語と自分の人生を混ぜようとしてしまうのは、親子という距離の近さ故、か。父親が家庭に向き合わなかったのは父親の問題だし、母親に友達がいなくてケアワークですり減ってたのは母親の問題であって自分とは関係ない、と言ってしまうと薄情が過ぎるか。でも、薄情と思われても切り捨てないと自分の問題にも、いや自分の幸せにすら向き合えない。原家族の影は濃すぎて、自分を幸せと思わせないだけの力がある。幸せな家庭のイメージがまだ、ない。ずっとないままかもしれない。でも先に個人としての幸せであるなら、いいか…

自他境界を明確にすることで得られる幸せもある…っていうか、自分の幸せを自分だけでかみしめることができるのよね。一人じゃなくて。薄情ではなく自分を優先しているということで。
その上でまた実家の人たちと家族をやりたいかって言うともういいかな、になって、ただ…モラハラ気質も変わっていないだろうから行政手続きは続行で。
感情と事実の区別はつけたほうがいいし、自分はまだ万全ではないし、安全な存在でもない、まで書くとちょっと薄ら暗いけれど…仕方ない。

春が近い。あたたかくすごしたい、目の前の幸せを大切にしたい、できればずっとずっと幸せでいたいし、自分を不幸な存在にしておきたくない。なにはなくとも自分を愛で慈しんでもいいらしいので、そのへん模索していきたいな。

もうすぐ早春賦が街で流れるのかな。あなたにも、わたしにも、いいことがありますように。
一月最終日の手紙。

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