2024.2.11 トッツィー@梅田芸術劇場 感想文

ミュージカル

本投稿にはネタバレを大いに含みます。一番の主張は「お話をするのが大事」な感想文ですので、合わなさそうな方はここまでにしておくとよいです。よろしくおねがいいたします。長いです。

いやー面白い!想像よりはるかに観た後が爽やかで、アツアツに盛り上がった作品でした。
Unstoppableなだけじゃない!どのキャラクターも魅力的で、派手なように見えて「お話するのが大事」という本質的なことに行きついた作品で、下品な台詞回しもあるけどそれをいやらしくなくしてるのがいいなぁと思いました。

STORY

俳優のマイケル‧ドーシー(山崎育三郎)は、演技へのこだわりと熱意は人一倍だが、演出家やスタッフと揉めてしまう、性格に難ありの面倒くさい俳優。エージェントのスタン(羽場裕 一)も匙を投げる始末だ。同居している売れない劇作家で親友のジェフ(金井勇太)は何かとアドバイスをしてくれるが好転の兆しはない。俳優として舞台に出るチャンスを探している中、マイケルの元カノで今でも頻繁にマイケルのアパートにやってくるサンディ(昆 夏美)がブロードウェイ・ミュージカルの臨時オーディションを受けることを知る。マイケルは仕事が欲しい一心で女性になりきって“ドロシー・マイケルズ”と名乗り、そのオーディションを受けたところ、合格してしまう。個性的なキャラクターが際立つドロシーは、敏腕プロデューサーのリタ(キムラ緑子)の目に留まり、主役に引き上げられ、一躍人気者になってしまう。素の自分=男としては全く売れないのに、女優ドロシーになりきると、共演者やスタッフからの人望まで得てしまったマイケルは、挙句の果てに、マッチョでイケメンだが俳優としては未熟なマックス(岡田亮輔/おばたのお兄さん Wキャスト)に熱烈に惚れられてしまう。そんな中、同じ舞台で共演することになったヒロイン役のジュリー(愛希れいか)は、大御所演出家のロン(エハラマサヒロ)に言い寄られながらも取り合わず、ドロシーとの友情を深めてゆく。が、素のマイケルはジュリーに恋をしてしまい…。

日生劇場 ミュージカル『トッツィー』 STORYより引用

正直幕が上がるまで、「男の姿では仕事にあぶれる男の俳優が女装したら女優として上手くいく、って女の仕事奪うやつやん…」という気持ちはあったし、トッツィーは日本語だと「かわいこちゃん」「ねえちゃん」に相当する言葉と知って、なんでこのタイトルなんやろうなあと疑問でした。原作の映画も見て、派手なものは好きだしおばたのお兄さんと岡田のお兄さんのダブルキャストは面白そうだから、で2枚とって今に至ります。

で、少し構えてたけど観てめちゃくちゃよかったです。
まず、指揮の塩田明宏先生の引き込む力がすごい!ラ・カージュ・オ・フォールでもお馴染みの手拍子煽りとジャンプは健在でした。オケの金管セクションもご機嫌で心地よく、オーバーチュアで梅芸がNYに変わる瞬間を私は見た!舞台とオケと客席のエネルギーの応報で劇場全体が物語の世界に変わる瞬間が好きです。

変わったところのある、気難しさのある人物を愛すべき人間として描く温かさがあるから私はミュージカルを観ているところがあるんだけれど、マイケルがちゃんと自分で考えて行動して失敗したり成功したりして、相手にぶつかって会話をしようとする方向に変わったところにこの物語一番の良さを感じました。(男性がそういう風に変わって良さがあると評価される話なんていくらでもあるだろ、は、はい、それはそうです…)

「女性のポジションを男性が奪う」ことについては悲しいことに今の日本社会でもあることですね…そして、女性のポジションに女性として男性が就くことはほぼないことで、マイケルはたまたまジェリーと出会えたからその苦労を少しわかったんじゃないか、と思える台詞がいくつかありました。
一幕、マイケルが女装して女優の仕事をすることに対してマイケルの友人ジェフが「あらゆるマイノリティへの冒涜だろ!」みたいに批判する台詞があり、でもそれをマイケルは聞かずに進んでいく。多分この時点では何もわかってない。マイケル・ドーシーからドロシー・マイケルズに変身し、その中でジェリーと仲良くなったことで女性が働く苦労を目の当たりにする。逆にいうとそこまでしないとわからないっぽいんですよね。
二幕でマイケルが女性の俳優と男性の俳優の苦労の違いに気づいたようなセリフがあるけれど、特によかったのはリタがドロシーに契約延長の交渉をする場面の台詞。「マックスとジェリーの待遇が違うならジェリーの契約をマックスと同じにして」みたいな台詞があって、一瞬の台詞だけど、マイケルなりに待遇差をどうにかしたかったんかなぁと。

他人の靴を履いてみる、という英語の定型句表現がありますが、二幕終盤のジェリーの「ヒールを履いて一マイル歩いたくらいで分かった気にならないで!千マイル歩きなさいよ!千回転びなさいよ!」みたいな台詞は、ちょっと履いたくらいで分かった気になるなという主張が込められておりそれは本当にそうです。マイケルの台詞の中にあった差以上の性差をジェリーは感じているし、このセリフの中でジェリーと女性の観客は重なる。そこでジェリーが言いたいこと言えて、お互い名乗ってベンチで並んで(一幕でジェリーとドロシーとしてお話をしていたベンチと同じかな)お話を始めるところで終わる。溜飲が下がるとかじゃなくて、お互いの立場が違うことを分かりあおうとして、お話をする、のが大事。

マイケルはマイケルでそのままの自分では役にありつけない俳優だし、ジェリーは男社会の中で上手くやることを課せられているし、でもそれぞれの抱えるものは違って。悩みや抱えるものの方向性の差はあれど、共闘でなく共に話せる仲間であることはできるよなぁ、と思います。ジェリーがドロシーに色んなことをお話した結果互いに惹かれあったけれど、「中年女性で尊敬できる俳優であるドロシーだからこそ信頼して打ち明けた」のがキモで、それほどまでに仲間のいない戦いの中にジェリーはいたんだろうな。男性中心の構造の社会で、ロールモデル不在の戦いの中どうにかやるしかない中、ドロシーみたいに魅力的で才能ある中年女性がいたらそりゃ心強いし打ち明けたくなるよ…私にもいてほしいもん。でも現実にはロンみたいな勘違いプロデューサーが惚れてくるなどの惨事はある、ドロシーはなかなかいないのだ…

二幕終盤までマイケルは人の話を聞けないのですが、一幕時点ではそれがなんとなく良い方向に作用しています。本当に人の話を聞かないのに根気強くマイケルと共に居るジェフは偉いよ…
マイケルはマイケルで、男の姿のままでうまくやれなかったこと(気難しすぎてオーディション落ちまくって仕事がないレベル)がドロシー・マイケルズという女優の姿ではとんとん拍子に事が進んでプリンシパルとして契約延長の申し出まで受けることへの悩み、姿を偽ってジェリーに恋をしたこと、マイケルに惚れられたことなどへの葛藤があってずっと悩んでいて、で悩みの渦中の人間って誰かの言葉を聞くのが怖いように思います。「誰も私を止められない!」はこの作品のキャッチコピーだけど、渦中だと止まることが出来ないって、あるよなぁ…ドロシーと愛すべき元カノ・サンディがいてくれてなんとなく事なきを得た感じがしています。
二幕ではしょっぱな「マイケルとして、これまでジェリーがドロシーに話してくれた理想の男性像を演じたら恋が上手くいくんじゃないか」というお前は何を言っているんだ案をドロシーのいるクラブで実行しては散り(ジェフは止めたし、でもクラブでは見守ってくれていて優しいね…)、ドロシーの姿ではジェリーに真剣な交際を求められ、筋肉はあるが才能のない俳優マックスには真剣に惚れられ(お腹のタトゥーは毎回描いてるのかな)、もうぐちゃぐちゃだから自分で全部正直に話してこの混乱を止めることを決めます。誰かに言われて決めるんじゃなくて自分で考えて、がいいんだよな。最初からジェフは批判してたけどね…

ドロシーが自分がマイケルであることを明かして大騒動→ジェフとサンディがひょんなことからお互い惚れあって一夜を明かした後マイケルは帰ってきてジェリーのこととか若干ぐだぐだ言ってますが、そこでジェフが「ジェリーはどう思うか考えたら?」的なの言うのがいい。そう、マイケルに足りないのは相手の気持ちを考えること!そして考えて、お話をする、で二幕が終わるのがいいんですよ。
最初から正解が出せなくても、相手を思いやりコミュニケーションを試行錯誤することはできる。ブロードウェイ、女装、コメディ、で派手に見える話だけど、本質的なコミュニケーションの話でもあると思う、個人の関りの話。

ただ、お話をしない、はどうも男性にそういう傾向があるんじゃないか?男同士で語り合うことは見落とされているのでは?も劇中の台詞から伺えて。
一幕でマイケルが「ドロシーの姿でジェリーといろんなことを話せた!」みたいに喜んで、それでジェリーを好きになったんかなというのが伺えるのですが、男同士でそんなに深い話し合いがあまりない、フラットな雑談が難しい(しかしタバコ部屋や飲み会では会話をする、あれは会話目的部屋の役割があるんだろうな)ことと地続きで、話したくらいで好きになられても…の根っこは男同士のお話と関係性なんだよなぁ~と思うことです…
この辺りからメンズリブの気配を感じたけど、でも女装して女優やらないとそんなことも分からないのか!って批判もありそう。そこまでやらないと分からない人は分からない…のは体感としてある。それほどまでに、自分の立場以外におかれる人の境遇や気持ちは理解が難しいことだ。

あと、自分のありのままの姿ではわからないこと、に加えて、ありのままの姿で同じこと言っても伝わらないから別の姿になる、もあると思っていて。マイケルの時とドロシーの時で俳優としての姿勢は同じだけど全然扱いが違う。人は思うよりずっと「誰が言うか」に左右されている。
だからこそマイケルが正体を明かしたのは評価されることなんじゃないかな。自分の正体を明かさずにドロシーとして女優を続ける道もあったかもしれないけど、そのまま(下駄をはいた状態で)上手くいって成功し続けることよりも、嘘をつかないほうを選ぶのは、誠実さというか…そうじゃないとお話にならないのはあるけれども。

とまあ色々考えて楽しい作品です、もう一度観れるので大切に観ます!そして、タイトルの「トッツィー」についてはもう少し考えます。このタイトルにした意味を自分なりに見つけたいよ。

ここまで長々書いたら俳優個人の話をすっ飛ばしていた…嫌味のない中年女性が出来る力量山崎育三郎、とことんついてないけど憎めない役もハマる昆夏美、アンサンブルだと照井隆裕さんがいると締まる!みんなよかったけど藤森蓮華・松谷嵐・本田大河特にアツい!衣装が洒落ててよい!などなど書きたいことはありますので、またどこかで…

コメント